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大正時代から続く雨乞い神事を受け継ぐ。

(雨乞い神事保存会のみなさん)

プロフィール

大庭次男さん(66、写真右手前)雨乞い神事保存会会長。元々吉賀町蔵木田野原地区で行われていた雨乞い神事を平成4年より復活させ、以来1年に1回水源祭りと共に開催している。

雨乞い神事保存会の成り立ち

もともと田野原地区で雨乞い神事を開催していたことを人から聞きました。それでは地区でやってみようと若杉会(当時の地区の会。大人も子どもも参加)に提案したところ、ひとつ返事でやろうということになりました。

若杉会は地区の行事を担ってた会。盆踊りや秋祭り、農業大会や子ども神輿、正月には今でも行っているどんと焼きや、過去には獅子舞もやっていましたね。近くに住んでいる人でも男性は年齢が違えばあの人は誰だろう、ということになり、女性は他所から来ている方も多いので『誰の奥さん』という呼び名になる。そうではなく○○さんと名前を呼び合う関係を作ろうと、顔を合わせることによって人となりもわかり、付き合いやすくなるんです。地区内の交流が目的の会でした。現在は30名程度で集まりをしています。

雨乞い神事保存会は若杉会が中心になっているが、最近はよその地区からも入りたいという声が多くなり、島根県の職員も入りたい、蔵木中学生も参加したいという声があったので入ってもらっています。昔から地域を元気にするのはヨソモノ、ワカモノ、バカモノと言いますよね。会の輪を乱さない人であれば、多くなり過ぎない範囲で受け入れをしています。

現在の雨乞い神事・水源祭りができるまで

雨乞い神事は田野原地区で干ばつがあった際に行っていました。記録を見ると大正10年、明治6年、昭和14年に行ったとあります。昭和14年は4月に雨が降った後8月のお盆過ぎまで雨が無かったとあります。

 その神事を復活させようと、最初は地区で当時の事を知っている方に話を聞いたんだが、前回が昭和14年じゃろう。知っとっても知った人が子どもの頃の話だから、記憶が点でしか残っちゃあいない。色んな人に話を聞いて回り、記憶の断片を拾い集めました。部分部分でしか無い記憶を想像を頼りにひとつのものにまとめ、なんとか現在の形を作り上げました。

最初の頃は大元神社(集落にある神社)から練り歩きもしていましたが、だんだん今の形になっていきました。昔は最初から勢い良くわっしょいわっしょいとしていましたが、今ではゆっくり公園内を歩いてからお神酒をのんだ後に勢いがつく。だんだんオリジナルになってきていますね。

(大元神社からのわら龍の練り歩き)

動の祭りは一発勝負。

前夜祭も開催していて、最初の方はわら龍のライトアップをしていました。その迫力がすごい。今はライトアップをお休みしていますが、また再開したいですね。前日に一泊してもらい、翌日に本番を迎える泊まりがけで楽しむことのできるイベントとなっていくよう考えています。

吉賀町にはたくさん祭りがあるが、動のイベントは雨乞い神事だけなんよね。他は自然鑑賞が主の静の祭り。動の祭りは人がいるからこそ成り立つ。一発勝負でもあるから気合を入れるが、打ち合わせは全く無し。わら龍の頭を持つ者が先導してそれに後ろのものがついていく。

わら龍も手作りなんです。最初は顔もはっきりしたものではなかったが、どんどん進化していっています。ただ、今はわらをはなえるのが大変ですね。田野原は八町八反のふけ田といって4mも底まで沈む沼田だから今頃はいよいよ作り手がいないんです。

 少し前新聞社に「これは龍なんですか、大蛇なんですか」と聞かれました。水源の一本杉の下にある池が現在は大蛇が池と呼ばれるのでそう聞かれたと思うのですが、これは龍。昔から水神様は龍だったから、これはわら龍ということで手を付けていますね。吉賀町役場六日市庁舎玄関にも飾ってありますよ。

 

(前夜祭で行われるわら龍のライトアップ)

毎年工夫をしながら変えていく。

長く続けていくことが大切だね。お客さんは毎年違う方が見に来ることもあるし、毎年同じことをやっても良いかもしれないが、毎年同じことをやっていてもやっていく方がつまらなくなってくるんだよね。だから毎年何かしらを変えていかなければいけないと工夫しています。

今後は他の地区でわら龍をもう一つ作ってもらって、ヤマタノオロチではないが2つのわら龍が交錯する、ということも考えてみたいね。

(一本杉を駆け上がる龍)